光明勝栗由来

 天正3年(西暦1575年)6月上旬、徳川家康公は、武田方に奪われていた二俣城を攻めるにあたり、まず光明城を落とそうとした。大激戦の末勝利した家康公に、麓の村の百姓4人が、寺院を通じて村で採れた栗を献上したことが「光明勝栗」の始まりである。
 その際、家康公は「光明の勝栗…。そうか功名勝栗じゃな。こりゃあ、めでたい。行く末めでたき吉兆じゃ」と大いに喜び、百姓4人に名字を与え、それ以降、一切の賦役(年貢や労役)が免除された。    
 それから毎年家康公に献上され、徳川が天下取りを果たした後も、かかさず江戸城に届けられ、「光明勝栗」は、江戸城正月の恒例行事である、正月7日の七草の膳に、めでたい”功名勝栗”として色を添え、それは江戸末期まで約300年間続いた。
                  「ふるさとものがたり天竜」(上阿多古草ぶえ会)一部抜粋

鈴木本家に伝わる「光明勝栗由来」書

上記をタイプアップしたものが下記です。

光明勝栗由来

仰々富家勝栗ハ天正三亥年六月上旬徳川家康武田勝頼ト合戦ノ

タメ遠州浜松城ヲ出発シ豊田郡横川村ニ出陣御先手ハ常國光明

山仁王門ニ詰合ヒ山モ谷モ軍勢充満シ戦御難儀ノ砌リ私先祖

鈴木出雲守ハ御手先ニ加り屡々御感賞ニ預リ折柄陣中御慰

トシテ勝栗献仕候處徳川神君殊ノ外御喜悦ノ上光明勝栗ト唱ヘ

御喜納アラ處御感賞ノ上御褒美トシテ具足一乗鞍一大小一振苗字

帯刀御免大平十人前御下賜ノ上鷹羽ノ定紋差シ許サレ毎年献上

セヨトノ上意ヲ賜リ且ツ十二代将軍ノ時酒造五百石ヲ賜リ茲

来徳川将軍家ニ對シテ年々一月七日草ノ祝日ニ登城献上シ即

チ其量ハ六合六勺入十二斤桝目一升ハ(六合六勺)日本六十余州

十二斤ハ一年一二ヶ月準エ二百六十有余年ノ間永績献上仕リ明

治維新ノ初メ有栖川宮織仁親王殿下徳川御東征ノ砌リ駿河國浦

原宿ニテ献上又御凱戦ノ節濱松宿御本陣ニ伺候献上仕候處御嘉

納ノ上 畏クモ御賜謁竝ニ金一封ヲ下シ置カレ年々献上セヨト

有難キ御書判ヲ賜リ又川鰭侍従ヨリモ金一封ヲ下サレ家門ノ誉

ヲ輝シタリ故ニ明治二年三年京都ヘ献上ニ出張仕候モ當時御殿

ノ所在不明ニテ惜クモ中絶今日ニ至レリ

右勝栗由来ノ概略ナリ

静岡県磐田郡光明村只来一〇二六

鈴木本家

一七代 重義 謹白


上記、文書イメージからタイプアップしました。

ChatGPTによる現代語訳の一例です。

光明勝栗の由来


仰々富家の勝栗(光明勝栗)の由来は、天正三年(1575年)の六月上旬に遡ります。この時、徳川家康は武田勝頼との戦いのために遠州浜松城を出発し、豊田郡横川村に出陣しました。家康の先陣は光明山の仁王門に詰めていました。山や谷には軍勢が満ちており、戦況は非常に困難でした。

私の先祖である鈴木出雲守はこの戦いに加わり、しばしば感賞を受けました。その際、陣中の慰めとして勝栗を献上しました。徳川家康はこの勝栗を大変喜び、「光明勝栗」と名付けて喜納しました。そして感賞として、具足一揃い、鞍一つ、大小の刀一振りを与え、苗字帯刀を許し、大平十人前を賜り、鷹羽の定紋を許されました。また、毎年勝栗を献上せよとの上意を賜りました。

さらに十二代将軍の時には、酒造のために五百石を賜り、それ以来、徳川将軍家に対して毎年一月七日の草の祝日に登城して勝栗を献上しました。その量は六合六勺(約2.2リットル)入りの枡一升(約1.8リットル)で、日本全国の六十余州に準じた量でした。この伝統は260年以上続きました。

明治維新の初め、有栖川宮織仁親王が徳川の東征の際に駿河国浦原宿で献上し、また勝利の後に浜松宿の本陣で献上したところ、大変喜ばれ、金一封を賜り、年々献上せよとのありがたいお言葉を賜りました。また、川鰭侍従からも金一封を頂き、家門の誉れとなりました。

明治二年と三年には、京都へ献上に出向きましたが、当時の御殿の所在が不明だったため、惜しくも中断してしまい、今日に至っています。

以上が光明勝栗の由来の概略です。


静岡県磐田郡光明村只来一〇二六

鈴木本家

第十七代 重義 謹白

さらに、Geminiにも現代語訳してもらいました。

光明勝栗の由来

はじめに

この文書は、光明勝栗と呼ばれる栗の献上物にまつわる由来を記したものです。徳川家康公との関わりや、鈴木家への特別な褒美、明治維新後の献上品の中断など、興味深い内容が詳しく説明されています。

本文

天正3年(1575年)、徳川家康公は武田勝頼との戦いのため、遠州浜松城を出発し、豊田郡横川村に出陣しました。家康公の先鋒隊は、常国光明山の仁王門に集結し、山も谷も兵士で埋め尽くされました。戦いは難航し、鈴木出雲守という先祖は家康公に仕え、度々感賞を受けていました。

そんな折、家康公の陣中を慰めるために、出雲守は勝栗を献上しました。家康公は大変喜ばれ、「光明勝栗」と名付け、以下のような褒美を下賜されました。

  • 具足一式
  • 鞍一式
  • 大小一振
  • 苗字帯刀の御免
  • 大平十人前 ※現存しています。
  • 鷹羽の定紋の使用許可 ※鷹羽譜入り紋

さらに、毎年献上するようにとのご意向も賜りました。

その後

  • 12代将軍の時代には、酒造500石を賜りました。
  • 明治維新初期には、有栖川宮織仁親王殿下への献上品として、駿河国浦原宿にて献上しました。
  • 凱旋の節には、浜松宿御本陣にて献上し、御嘉納を賜りました。さらに、謁見と金一封、毎年献上するようにとの有難き御書判を賜りました。
  • 川鰭侍従からも金一封を賜り、家門の誉れを高めました。

明治2年・3年には京都へ献上するために出張しましたが、御殿の所在が不明となり、残念ながら中断してしまいました。

以上が、光明勝栗の由来の概要となります。

署名

静岡県磐田郡光明村只来一〇二六

鈴木本家

一七代 重義 謹白

補足

  • この文書は、鈴木家によって代々受け継がれてきた由緒書と考えられます。
  • 文末には、明治維新後に献上物が中絶してしまったことが記されています。
  • 光明勝栗は、現在も浜松市内で販売されています。

The Origin of Komyo Kachiguri

Introduction

This document outlines the history of a chestnut offering known as Kumiyaguri (Bright Chestnut). It provides a detailed account of its connection to Tokugawa Ieyasu, the special rewards bestowed upon the Suzuki family, and the interruption of the offering during the Meiji Restoration.

Body

In 1575 (Tensho 3), Tokugawa Ieyasu set out from Hamamatsu Castle in Enshu Province to engage in battle against Takeda Katsuyori. His vanguard assembled at the Niomon Gate of Jomyoji Temple on Mount Kokumiyo, with troops filling every valley and mountainside. The battle proved to be arduous, and an ancestor named Suzuki Izumo-no-kami served Ieyasu, receiving numerous accolades.

During this time, Izumo-no-kami presented Kumiyaguri chestnuts as a gesture to慰める (慰める) Ieyasu’s troops. Ieyasu was greatly pleased and bestowed the following rewards, dubbing the chestnuts “Kumiyaguri”:

  • A full set of armor
  • A saddle
  • A pair of swords, long and short
  • Permission to bear the family name with a sword
  • A stipend of ten koku of rice
  • Authorization to use the takaha (hawk feather) family crest

Furthermore, Ieyasu expressed his desire to receive the offering annually.

Subsequent Events

  • During the reign of the 12th shogun, the Suzuki family was granted 500 koku of sake.
  • In the early Meiji Restoration period, the offering was presented to Prince Arisugawa Orihito at Urahara-juku in Suruga Province.
  • Upon Ieyasu’s triumphant return, the offering was presented at the Hamamatsu-juku honjin (main inn), where it was graciously accepted. Additionally, the Suzuki family was granted an audience with Ieyasu, a gold coin, and a written decree instructing them to continue the annual offering.
  • They also received a gold coin from Kawagire Jiju, further enhancing the family’s honor.

In 1869 and 1870 (Meiji 2 and 3), the family traveled to Kyoto to present the offering, but unfortunately, the location of the imperial palace became unknown, leading to the discontinuation of the tradition.

Conclusion

The above summarizes the origin of Kumiyaguri.

Signature

Suzuki Honke Tadashige, 17th Generation Shiraigi 1026, Hikari Village, Iwata District, Shizuoka Prefecture

家康公の略歴(浜松での17年間)

元亀元年
(1570)
29歳岡崎から遠江国に移り、浜松城を築いて本城とする
元亀3年
(1572)
31歳三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗する
天正3年
(1575)
34歳織田信長との連合軍が長篠の戦いで武田軍を破り、駿河の武田軍を排除。
光明城の戦い光明勝栗の始まり※1)
天正7年
(1579)
38歳織田信長の命により、築山殿(正室)を殺害。
信康(嫡男)を切腹させる
天正9年
(1581)
40歳武田方の高天神城を攻略し、遠江の全域を平定する
天正14年
(1586)
45歳浜松城から駿府城へ移る
※1 勝栗の始まりを、天正3年(1575)3月とする伝説があります。(「家康の愉快な伝説101話」御手洗 清 著 昭和58年 遠州伝説研究会発行に記載。
「武士のめし」家康と食にまつわる物語 -静岡県中部地域局ー の3ページ目を参照願います。)

光明こうみょう城の戦い

天正3年(1575)5月、織田信長の援軍を得て長篠の合戦武田勝頼を破った徳川家康は、直ちに武田氏への反攻に転じる。
家康がまず目指したのは、遠江国の犬居谷と称される地域の掌握であった。この地域は、武田氏が信濃国の伊那地方から家康の本拠・遠江国浜松城へと軍勢を送る経路にあたることから、武田氏が長篠合戦で受けた打撃から立ち直るまえに抑えておく必要があったのである。

家康はまず、浜松城に近い二俣城の周囲に4つの砦(付城)を構築し、大久保忠世らに指揮を委ねて二俣城を牽制させると、その後背に在って二俣城を支える光明城の攻略に取りかかった。6月24日のことである。
家康は光明城の麓の横川に布陣してここを本陣とし、本多忠勝榊原康政らに命じて光明城の大手(正面)にあたる仁王堂口から攻めさせ、家康の本隊からは旗本衆を城の背後に繰り出して攻撃させた。『浜松御在城記』では多々羅江(只来)口からは大給松平真乗が、「セウシン淵口」からは内藤信成が攻めたといい、城を包囲するように激しく攻め立てたことがうかがえる。
この猛攻に、城を守っていた朝比奈又太郎泰方は支えきれずに降伏開城し、一命を助けられて甲州へ落ち延びていったという。

https://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/ka/KoumyouJou.htmlより引用

徳川家康の合戦年表